2009年03月25日
競い合いを避ける教育

先にあげた、日本人論の続きです。
ある大学の講座で、年配の学生が、教授に質問をしました。
「昨今の教育現場で時に見られる『競い合いを避ける教育』『横並びの教育』といわれるものがあるが、これはおかしいのではないか。
競争しながらも互いにその努力を認められる世の中にして行くことが大事ではないのか。
我々の頃は、競争は当たり前にしてきたことで、その競争で得た結果もそれぞれが認め合い納得できていたように思う。」
と発言されました。
私には、心に響く問題提起でした。
ちょっと考えて見ました。
例えば、運動会で順位をつけないようにしたという学校があります。
その理由として
「競技において走るのが速いか遅いかというのは、個性の現れである。
人の個性を順位づけ(価値づけ)することは、教育上問題があると考え、順位づけをやめることにした。
そして、順位に関係なく皆の努力を認めるという運動会にしているのだ。」ということだそうです。
しかし、一方で、教科課題において(算数や国語など)は、テストをすることで点数化(評価)している現実があります。
すると、「走ることの速い遅いが個性というのなら、勉強の得手、不得手も個性ではないのか?個性とは何か?」
と考えてしまいます。
勉強の不得手の子は、図工や音楽や体育など、他の分野で自分を発揮して評価をもらい、
自己効力感が得られている子どももいます。
何でもかんでもが、横並びでよいとも思えないし、評価することが一概に悪いということ
でもないであろうと考えます。
事実、いったん社会に出れば “競争原理”に基づき、順位づけや評価がなされているのです。
このように、たとえ、教育現場で『競い合いを避ける横並びの教育』が行われようと、
社会に出れば激しい競争が待っている現実がここにあるのです。
私は、このずれが、“社会のゆがみ”として出てきているように思えてならないのです。
大事なことは、この男性が言った
「競争で得た結果もそれぞれが認め合い納得できていたように思う」
というところにあると思います。
つまり、競争を通して得た結果で、自分や他人に烙印を押すのでなく、その結果や努力を建設的に認め合える力を持つ仲間関係が育つといいなと感じます。
同時に「人間は、一人として同じ人がいない。だから、尊く、違うということは素晴らしい。」と人それぞれの違うことの良さを理解できる教育であればいいな?とも考えました。
競争原理が、「良い」とか「悪い」とかではなく、必要なことは『競争原理を越えた人類的・普遍的な価値の探求』にあると考えるのです。