2009年11月29日
鋭き観察者

小学校3年生のセシリアが言います。
いつも穏やかで、一緒に遊んでくれる大好きな先生が、生徒に分からせるために叱る場合がある。
この姿は、立派だと思っているし、叱る先生も大好きだ!
しかし、時には、生徒を力ずくで“放り投げる”事がある。
それを見ては怖くなると言う。
「お尻から落ちたからいいけれど、頭でも打ったら、M君も怪我をする。
そんなことにでもなったら、先生も処罰されないの?」と・・・。
(お友だちが怪我をしたり、大好きな先生が処罰されるのを心配する。)
穏やかな先生が放り投げてしまうのだから、どうやら余程のことなのであろうが、
大事なことは、放り投げられているその子の『表情』だという。
「M君は、先生に叱られても反省していない。ものすごい目で先生を睨んで、恨んでいる。
あのやり方では、M君には伝わっていない。
M君は反省するどころか、先生を憎み始めている。」
「先生は暴力はいけないといつも言う。でも、M君を放り投げるのも暴力ではないの?」
「“暴力”と“しつけ”の差は、生徒がそれをどう受け止めて居るかだと思う。
以前、先生に放り投げられて、泣いて反省したA君は、弱い者いじめを二度とやらなくなった。
だから、A君には、しつけとして通用したけど、M君は、只の“暴力先生”としか思っていない。」
「私、先生に聞いてみたい。
『先生はいつも“暴力”はイケナイと言っています。
では、“暴力”と先生の今やっていること(放り投げる)の違いは何ですか?
M君にとっては“暴力”としか思えていないと思うのですが。教えてください。。。』って・・・・・」
その先生は、セシリアの事をいつもこう言って評価して下さいます。
『とっても素敵な子なんですよ~。(まるで、わが子のように言って下さいます。)
人の気持ちがよ~くわかる子どもです。
困っている子には、そっと気配りのできる子なんです。
とっても配慮のある子どもです。』 と・・・・
今回は、『先生の気持ち』にも『M君の気持ち』にも心を動かされてしまったセシリアです。
M君の度重なる非建設的な言動・態度は、実は、
『M君自身が何らかの“困ってしまっている”状態を抱えていながら、その適切な対処方法を
知らないでいるところの結果としての表れ(自己尊重感、自己肯定感の低下状態)』であるとしたならば
先生の『放り投げて分からせようとする(反省させようとする)やり方』では、
M君の言動を建設的なものへと変化をさせることはできないでしょう。
そんなことにセシリアは気付いたようですね。
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子どもは、よ~く見ていますし、よ~く感じているものなのです。
只、それらを上手く言語化して表現できないだけなのです。
子どもは、大人よりも、余程素晴らしい観察者であるし、実践家であり、思索家であるときがあるのです。
時に、立派な心理学者や哲学者でもあると感心することも多いです。
こうして私は、いつもセシリアや太郎吉に気付きを与えられ、教えられているのです。
ありがとう