2009年03月25日
懐かし ひよこ菓子

「銘菓・ひよこ」
東京の名物かと思っていたら福岡で産声を上げ製造したのは本舗・吉野堂。
昭和39年東京オリンピックの年に東京に現れたというから、まさにそのころ
みのには双子の弟妹ができました。(うッぷ。。。歳がバレバレ。。。)
当時は、「高級菓子・舶来品・めったに食べられない・贅沢品」と思っていたのは
『文明堂のカステラ』。そこに現れたのがひよこのお菓子。
お菓子とは思えないほど愛らしくて、すべすべしたなめらかな手触りは
高級舶来品『文明堂のカステラ』(?)とは違い、
子ども心にも何だか手が届きそうなものに感じたものです。
実はみのが、親の愛情の品定めとして選んだのが、この「銘菓・ひよこ」。
「父ちゃん、東京に行ったお仕事の帰りに買ってきて。どうしても買ってきて。」
とせがんだ記憶があるのです。
しかし、「銘菓・ひよこ」は、東京で爆発的な人気となり、売り切れで店頭に並ばなく
なっていたようです。
それでも父は、何としても買って帰ろうとしてくれていたそうです。
どうしてもひよこのお菓子を食べたかったというよりも、当時生まれた双子の弟妹に
親の愛情をとられてしまったと感じていたみの(3歳)が、ひよこのお菓子で親の愛情を確かめようとしていたわけです。
子どもとは、何とむごいものでしょう。。。
今でも、みのの母は、『あんたは、ひよこのお菓子が好きだったね~。
何かといえば無理言って、お父さんに買ってきてもっていたものね。。。』
と、今もって母はその思いの奥にあるみのの企みを知りません。
子どもはどんな手を使ってでも愛する人からの“存在認知”を得たいものなのです。
“承認されたい”のです。
みのにとってのひよこのお菓子は、そんな“せつないお菓子”です。
2009年03月25日
競い合いを避ける教育

先にあげた、日本人論の続きです。
ある大学の講座で、年配の学生が、教授に質問をしました。
「昨今の教育現場で時に見られる『競い合いを避ける教育』『横並びの教育』といわれるものがあるが、これはおかしいのではないか。
競争しながらも互いにその努力を認められる世の中にして行くことが大事ではないのか。
我々の頃は、競争は当たり前にしてきたことで、その競争で得た結果もそれぞれが認め合い納得できていたように思う。」
と発言されました。
私には、心に響く問題提起でした。
ちょっと考えて見ました。
例えば、運動会で順位をつけないようにしたという学校があります。
その理由として
「競技において走るのが速いか遅いかというのは、個性の現れである。
人の個性を順位づけ(価値づけ)することは、教育上問題があると考え、順位づけをやめることにした。
そして、順位に関係なく皆の努力を認めるという運動会にしているのだ。」ということだそうです。
しかし、一方で、教科課題において(算数や国語など)は、テストをすることで点数化(評価)している現実があります。
すると、「走ることの速い遅いが個性というのなら、勉強の得手、不得手も個性ではないのか?個性とは何か?」
と考えてしまいます。
勉強の不得手の子は、図工や音楽や体育など、他の分野で自分を発揮して評価をもらい、
自己効力感が得られている子どももいます。
何でもかんでもが、横並びでよいとも思えないし、評価することが一概に悪いということ
でもないであろうと考えます。
事実、いったん社会に出れば “競争原理”に基づき、順位づけや評価がなされているのです。
このように、たとえ、教育現場で『競い合いを避ける横並びの教育』が行われようと、
社会に出れば激しい競争が待っている現実がここにあるのです。
私は、このずれが、“社会のゆがみ”として出てきているように思えてならないのです。
大事なことは、この男性が言った
「競争で得た結果もそれぞれが認め合い納得できていたように思う」
というところにあると思います。
つまり、競争を通して得た結果で、自分や他人に烙印を押すのでなく、その結果や努力を建設的に認め合える力を持つ仲間関係が育つといいなと感じます。
同時に「人間は、一人として同じ人がいない。だから、尊く、違うということは素晴らしい。」と人それぞれの違うことの良さを理解できる教育であればいいな?とも考えました。
競争原理が、「良い」とか「悪い」とかではなく、必要なことは『競争原理を越えた人類的・普遍的な価値の探求』にあると考えるのです。